安達景盛関連エントリー

[史料]鎌倉幕府「撫民法」を読んでみる4-北条政村について-

... 翌年には 三浦 泰村と 安達 景盛(義景父)の武力衝突から起こった宝治 合戦 で泰村は滅び、 北条 氏ー 安達 体制が 確立 した。 建長元(一二四九)年引付衆新設に伴い、一番引付頭人を兼任し、幕政の中心に座る。 ...

[史料]鎌倉幕府「撫民法」を読んでみる4-北条政村について-

将軍頼経の追放と宝治合戦~伏線(6)

既述した状況の中で、出家して覚地(かくち)と号して高野山に入っていた 安達景盛 が 鎌倉 に到着し、 時頼 と連日何事かを相談する一方、息子の義景や孫の泰盛に、三浦の一党が武芸に秀でて頭角を現しているのに ...

将軍頼経の追放と宝治合戦~伏線(6)

[趣味雑談]一段落?

... 定綱 佐佐木信綱 佐佐木盛綱 佐佐木高綱 卷百九十四 列傳百廿一 將軍家臣四 土肥 實平 土肥 宗遠 大庭景能 安達盛長 安達 景盛 安達泰盛 後藤 實基 後藤 基清 加藤 景廉 工藤 茂光 工藤 景光 工藤 行光 比企能員 泉親衡 河村秀清 卷百九十五 列傳百廿二 ...

[趣味雑談]一段落?

幕朝の軋轢、そして承久の乱~濃尾三川地域での攻防(1)

... 鵜野渡には毛利季光ら、池瀬(いきがせ)には足利義氏、板橋には狩野介入道、大豆戸には 泰時 ・義村ら、墨俣には 時房 ・安達景盛らという布陣です。他方、この地域辺りから、東海道軍とほぼ並行する形で、そのやや北方を進む東山道軍は ...

幕朝の軋轢、そして承久の乱~濃尾三川地域での攻防(1)

頼家の失政と廃位~「人の愁い、世の謗り・・・」(3)

... さらにその後、 頼家 は 安達景盛 の妾を奪い、果ては 景盛 がそのことを恨んでいるという讒言によて、逆に 景盛 を討とうと企て、 政子 によって制止されるという、無道ぶりを露呈するような事件を起こします。 ...

頼家の失政と廃位~「人の愁い、世の謗り・・・」(3)

安達景盛とは?

安達 景盛(あだち かげもり、?年 - 宝治2年5月18日 (旧暦) 5月18日(1248年6月11日))は安達盛長の長男。鎌倉幕府の有力御家人。
父・盛長とともに源頼朝に仕えた。その後は鎌倉幕府三代将軍・源実朝に仕えて1218年に出羽守、秋田城介となって安達氏の勢力を拡大した。父の盛長は、頼朝の挙兵に協力した宿老であったから、これにより安達氏は相当の実力者に上りつめたものと思われる。
1219年、実朝が暗殺されると、景盛は実朝と親しかったため、その死を悼んで出家し、家督を子の安達義景に譲って高野山に入った。しかし高野山でなおも幕政に参与し、安達氏の安泰を図るために北条氏と姻戚関係を結ぶなど、活躍したという。1247年には老齢の身でありながら高野山を出て鎌倉に赴き、宝治合戦に子の義景とともに参陣した。

安達景盛の詳細